被害者になって、よかったこと

私は、モラ夫と出会わなければよかったとは

思わない。

だってモラ夫と出会わなければ作り上げることの

できなかった財産はたくさんある。

それに、自己愛性人格障害というものに触れなかったら、

私はこのまま被害者気質のまま生きていっていただろうから

結局別のモラ夫につかまっていたかもしれないし、

自分というものを良く知らないまま

生きていたかもしれない。


もちろん、今でも自分のことなんてよく分からないし

みんなそんなもんなんだろうけど、

必要以上に正しさに固執する自分。

モラルに執着する自分。

モラルを守っていないような自分は、価値もなくて

モラルを守ることだけが取り柄だと思っていた自分。

今でもそう。そういう考えから抜け出すことができていない。

けど、今まではそういう考えを持っていることさえ、

自分がそういう特徴があることさえ気づいていなかったから。


自分ってなんでこんなに生きづらいんだろうと

思ってた。

そこに、自己愛性人格障害者が現れて、私の存在価値を

認めてくれた。

誰よりも愛の言葉をくれた。

私は満たされた気がした。けれど、自己愛性人格障害者には

モラハラがつきもの。

たくさんの愛の言葉と優しい言葉と同時に、

モラハラも受けてきた。

そこで気づいた。自分を愛してくれるだけの人間はいない。

自分が欲しい愛をくれる人というのは、こうやって

愛の言葉をたくさん吐いてくれる代わりに、

責任感も何もない。

ということは、自分の理想の愛を与えてくれる人など

この世に誰もいないんだ・・・という、一種の諦めがついた。

そういう愛を欲しがっている限り、

私はずっと被害者体質のままで、被害者思考のままで、

被害者のまんま。


この考えから抜け出さなければ、

自分はモラルを守ることしか価値のない人間とは思っていないけど、

実際にモラハラに遭うとそういう感覚に襲われるということは、

自己愛性人格障害者から逃げ出しても一生、

被害者のままなのと同じだ。


・・・って、とにかく被害者である自分から

抜け出したくなった。

そして抜け出そうとしたときの、一人になる、孤独になる

怖い感覚。

今まで、「自己愛性人格障害者の問題」を見続けてきて、

だから自分自身と向き合わなくてよかったのに。

自己愛性人格障害者と出会う前から、私にとっての恋愛なんて

そんなものだった。

愛するのは尽くす自分というものが価値のある人間だと思える

手っ取り早い手段だから。愛すれば愛するほどそうだから。

愛してもらえれば貰えるほど、価値のある人間なのだと思えるから。

ただそれだけ。

本来の自分を見なくても済む。

けど愛じゃなくて支配だと知ったとき

そこにもう価値はなくて、

支配のほうが辛くて、抜け出そうとしたときに、

さらに自分と向き合わないといけない痛くて苦しい感覚。

モラハラにでも遭わないと・・・きっと私は気づくことが

できなかったし自分と向き合うこともしなかった。

多分、自己愛性人格障害者に会っていなかったら。

モラハラというものを受けていなかったら。


私は一生、私という人間の正しい価値を知らないまま、

「モラルだけはちゃんとしていて、まじめで、尽くすのが

私の長所」とか過大評価をしていて、

「モラルが守れない自分なんて恐ろしい。価値がない」とか

過小評価をして、過ごしていたんだろうと思う。


モラハラに遭ってよかったとは思わないけど、

それにモラ夫を恨むだけの人生にはしたくないから

そう思うだけかもしれないけど。

そこは、後々また振り返ってみないとわからない部分かもしれない。