自己愛性人格障害者は、
自分のことを正義だと信じていて、
それを信じ続けるための栄養補給のために
「他人を悪」にする。
だから、そうして生きている自己愛性人格障害者が
「ああ、自分が悪かったな」とか
そんなことを考える余地はなくて、
どういう状況でも被害者が悪で自分が善、正義でなくてはいけない。
そういう状況であるということにしなくてはいけないし
思い込む必要もある。
そうやって正義に執着する特徴があるから、
自分がちょっとした欠点や悪意があるということも
認めてはいけない。
被害者は、自己愛性人格障害者にも
良心の呵責があると思って、
そこを刺激するように「どれだけあなたが人を傷つけていると
思ってる?」ということを知らせようとするんだけど、
それは意味がない。
自己愛性障害者は、「たまたまであっても人を傷つける自分なんて
あってはならない」と思っているから、
自分はそういう人間じゃないと思いこんでいるから。
そんな事実はありません、だからあなたが傷ついているなんて
事実は嘘です!こっちこそ傷ついているんです。
という方向に話を持っていく。
相手の傷ついた感情がなかったことになんて
ならないんだけど、自己愛性人格障害者にとっては
「こいつは傷ついてなんかいない。被害者のふりをして
こっちを攻撃する気だ!」
と思いこむことができればそれでいい。
だいたい相手は自分と相違ない相手のはずなのだから、
相手は自分の手足のように動くべきだ、という感覚がある。
普通の人にとってもわかりやすい言い方はこれだと思う。
「自分の手足のように動くべき存在が、
自分の意志をもって、自分の手足じゃないみたいに
動いたらいらいらしない?」ということ。
動かないだけでもイライラするのに、そんな自分の手足に対して
「ごめんね」って思える?ということ。
自己愛性人格障害者にとってはまさにそんな感覚。
罪悪感なんか感じるはずがない。
けど、被害者はもちろん彼らの手足でもなんでもなくて、
一個の人格。人権のある、人間。
そこを自分の手足。自分と同じ存在。とかって考える
自己愛性人格障害者のその思考自体がおかしいんだけど、
彼ら自身にもどうしようもない感覚。